外はもう真っ暗だった。
とても暑い一日だけれどそんなの俺らには関係なく、今日も遅くまで部活をしていた。
部活自体は六時までだが、その後も残って練習を続けたり、後片付けをしていたり。
終わる頃にはすでにもう日は随分傾いていたりする
家に着くころには日は完全に沈んでいた。
戸を開ければ奥から良いにおいがする。夕飯の匂いだ。
もちろんさっきまで随分ハードに練習していたので腹は減っていて、早く夕飯が食べたかった。
そんな時。
奥から匂いと共に「若、お帰り」と言いながらこちらに来る母さん。
「ただいま」俺がそう言い返せば、母さんは俺の目をみてニッコリと微笑んだ。
「遅かったのね、部活?」
「はい」
そう言えば母さんはお疲れ様と声をかけてくれる。
が、何かを気にしているような表情をしているようだった。
俺は何となく母さんの考えていることが予想できたので、靴を脱がず母さんが次に発する言葉を待つことにした。
「それじゃあ、ちゃんも今帰りかしら?」
「…ええ、多分」
「そう…それじゃあ」
やはり。そう思った。
この状況、この後に母さんが発する言葉といえば、コレしかない。
「若、ちゃん呼んできて。一緒にご飯食べましょう」
世界を変える、たくあん
「すみません。夕飯頂いちゃって」
「あら、全然構わないわ。こんな遅くに帰ってきて、今から夕飯の準備するんでしょ」
「まあ」
「ふふ…むしろ毎日食べにきても構わないのに」
俺の目の前に座り、満面の微笑を浮かべて母さんと話している。
彼女は結局俺の家でご飯を食べている。
別に彼女が俺の家で飯を食おうが、今に始まったことではない。
幼い頃から数え切れないほどあることなので嫌ではないが、
目の前で女二人、仲睦まじそうに話していると自分はどうしたら良いかわからない。
だから俺は少し拗ねた表情を浮かべて、ただただ煮物と白米を交互に口の中に詰め込んだ。
「それじゃあ、ごゆっくり」
母さんはと話し終わると、ゆっくり部屋から出ていった。
その表情が何処となく嬉しそうだったのは、決して気のせいではない。
と話せて嬉しいんだと思う。
確かに、俺も兄さんも男だし、みたいに笑顔浮かべて楽しそうに母さんと話したりしないし。
可愛げのない男に引き換え、明るくふるまうは、母さんにとって娘のような存在なのかもしれない。
もちろんそれは、さっき述べた理由もあるが、もう一つ、理由がある。
彼女の家庭事情だ。
現在、の家に住んでいるのは彼女一人のみ。
両親ともあの家にはいない。
彼女が家のとなりに越してきたのは俺とが幼稚園生だった時。
と、彼女の母と父と、三人で家に挨拶に来たのを覚えてる。
真っ白のワンピースを着た、小さな小さな女の子。
「若、ちゃんって言うんですって。若と同い年」
「…」
「ほら、こんにちはって」
俺は母さんに促され、彼女にこんにちは、と挨拶をした。
初めて、と目が合った。
その瞬間、彼女は軽く桃色に染められたほほに血を上らせて、すぐに彼女の母さんの後ろに隠れてしまった。
俺は、どうして良いか分からず、口をあけてぽかんとしているしかなかった。
「ごめんなさいね、若君。人見知りしちゃう子なの」
ひとみしりってなんだ?
幼い俺はの母さんの言ったことが分からなかったが、とりあえず頷いた。
第一印象は悪いわけでもなく、良いわけでもなく至って普通。
ただ、母さんが「若のお友達よ」と言った言葉に対して、近くに遊べる子ができたんだ、と素直に喜んだ。
「ねー、若―」
過去にトリップしていた俺を連れ戻したのはの声。
俺はハッとして彼女に視線を向け、何だ?と答えた。
「優実とはうまくいってる?」
彼女が真顔で俺に向かってそう問う。
顔に血の気が上ったのを感じた俺は、思わず、むっと顔をしかめた。
しかしどう反応して良いのか分からない俺に構わず、彼女はまじまじと興味有りげに俺を見つめてくる。
無視はさせないわけか。
「ああ」
「…そっかー。うんうん、それは良かった!」
顔をパアっと明るくして、楽しそうに彼女は頷いた。
個人的には他人の恋路をどうだとか聞いてほしくないので良い気分では勿論ないが、
俺と花園をくっつけたのは間違いなく目の前にいるなので、文句の垂れようがない。
俺は顔をしかめたまま、止まっていた手を動かし食事を再開した。
といえば未だに「そりゃ優実は私と違って清楚で若のハートにストラーイク!って感じだしね」などと
訳の分からないことを楽しそうに喋っている。
初めてであった時のあの可愛らしい面影は何処に行ったんだ。
俺を心の中でそう呟いた。
が、俺は何で彼女はこんな風になってしまったかを知っているので、一概にもっと大人しくふるまえと言えない。
がこんなふうに振舞うようになったのは彼女の親が離婚してからである。
の家は実は裕福な家だ。
父親も母親も、有名企業に勤めるビジネスマンで、ビジネスウーマン。
そんな二人は世界中を飛び回ることが多く、は家一人ぼっちでいることが多かった。
引っ越してきてからすぐ彼女の両親は仕事。幼いは俺の家に預けられることがほとんど。
親が恋しくて泣いていた彼女を俺はなんど慰めたのだろうか。
子供を置いてどっかにいっちゃうなんて酷い。を慰めながら俺はそう思っていた。
でも本当はまだ良かったのだ。
彼女の親はまだ家に帰ってくることが多かったし、いないときも彼女に頻繁に電話をかけていた。
本当に酷いのはこれからだった。
時間の流れは残酷である、ということを改めて考えさせられる。
彼女の母さんも父さんも忙しい日々の中、少しずつお互いと会える時間が少なくなっていった。
時間の流れはお互いがお互いを思う気持ちを薄れさせていくもの。
彼女が小学校中学年のころから次第に二人の仲が悪くなっていった。
も両親のことを幼いながらも薄々と気づいていた。
両親の仲が悪くなるのと比例して、彼女もだんだんと暗くなっていった。
彼女は氷帝学園幼稚舎に、俺は近くの小学校に通っていて、幼稚園児の時ほど彼女と一緒にいたわけではないが、
それは小学生の俺にでもハッキリとわかることだった。
そして最悪の結末を迎えたのは小学六年生の時。
日吉家に一本の電話が。の母さんからだった。
電話に出たのは俺の母さん。電話はすぐに一緒に食事を取っていたに変わられた。
嬉しそうに「お母さん?変わったよっ」と電話に放っていたのを俺は見ていた。
久しぶりの彼女の嬉しそうな顔だったから。
しかし、しばらく笑顔でうんうんと頷く彼女の顔に、とたんに笑顔が消えた。
彼女は大きく目を見開き絶句していた。
後から聞いたことだが、その時、電話の向こうのの母さんは彼女に「ママとパパは離婚することになった」と告げたらしい。
彼女は手から電話を落とし、その場にしゃがみこんでしまった。
俺は慌てて彼女に駆け寄り「大丈夫か?」と声をかけた。
俺の母さんもに何があったか分からず、心配しながらも、彼女の落とした電話を拾い、耳にあて、電話の向こうの
彼女の母さんと話す。
母さんもまた、彼女と同じように目を見開いた。
それからというもの、彼女は数日間学校にも行かず自室にこもった。
相当ショックだったのだろう。
数日後に見た彼女の顔色は最悪だった。
でもは悲しそうな顔をしていなかった。
その顔に何かを決心したような力を感じたのを覚えている。
それからだ、彼女が明るくふるまうようになったのは。
無駄に笑顔で俺達に接して、元気いっぱいのように毎日を過ごす。
はもう悲しい顔を見せなくなった。
それは何故なのか、俺は未だにわからない。
吹っ切れてしまったのだろうか。でもそんなに簡単に片付くものでもないだろう。
もし俺が彼女と同じ立場だったら…と考えてみても、やはり答えは見つからない。
美味しそうに目の前で食事をしているを見て、俺はまた悩んでいた。
しかし、もう昔の話である。
今目の前にあるように、彼女は至って自然に明るい。何ももう心配することはないだろう。
俺は肩の力を抜き皿の上に置かれた最後の一枚のたくあんを取ろうとした。
その時。
「たくあん最後の一枚いっただき!」
「あ」
あと数センチというところで、彼女にたくあんを奪われた。
彼女から聞こえる、たくあんを噛む、ボリボリと言う音に無性に俺は悔しさを感じ、
をキッと睨んだ。
「おい、。それは今俺が取ろうとしたんだぞ」
「え〜?早く取ったもん勝ちだよ」
まるで俺をからかうような目で俺をみる彼女。無性に腹が立った。
が、ここで彼女の挑発に乗ってしまっては大人気ないではないか。
俺はそう思い、グッと堪え黙った。
「…んまぁ、もうしばらくしたらこんな思いもしなくなるよ日吉少年」
「は?」
彼女の意味深長な言葉に、改めての表情を見る。
至って普通の表情だ。
どういうことだ?俺がそう問うと彼女は麦茶を一気飲みし俺と視線を絡めた。
「私、アメリカに住もうと思うんだ」
090401